「気伸は癒ゆなり」

dokusho6

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かの天才
野口晴哉先生のご登場!

今回はその著書
「治療の書」から名言のご紹介

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再読

何年かぶりに、「治療の書」を手に取りました。

こうして読み返してみますと、さいわいにも、初めて手にした頃よりは、幾分理解が増したように思います。が、その分、胸に刺さることば、耳の痛いものも多々あり、身の引き締まる想いで最後まで目を通しました。といっても、まだまだ、わからないことばかりですが。

レイキを学び始めたころ、すこしでも何かを知りたいといろいろ読みあさった結果たどりついたのが、「整体」の生みの親、野口晴哉さんという人でした。とある本の表紙の裏に、大きく掲載された横顔の、澄んだ瞳の美しさに心が留まった時、ああ、ご存命のうちにぜひともお目にかかっておきたかった!と切に想ったものです。

晴哉氏の教えは、野口整体として今も続いておりますが、その中に「愉気」というレイキによく似た手当療法があるのですね。

わたしの知る限り、当時、レイキの手当に関して、ヒビキのことや、手を当てている時、その手の下では どういうことがおこっているか?などということを詳しく考察した本はありませんでしたから、 晴哉氏が残された書物の中でも、愉気に関するくだりは大いに参考になりました。

愉気に関しては、レイキととても良く似た感じがあるな、という印象を持つと同時に、 整体の大家であられる晴哉氏の書き遺された数々の言葉の中に、わたし自身が当時から抱いていたレイキ的な世界観と相通じるものを感じさせていただき、大いに励まされ勇気づけられたものです。

実際、愉気というものを体験したくて、当時ご縁のあった整体教室で一度だけ体験させていただきました。その時に、整体の操法というものもしていただきました。

しかし、この「治療の書」。なんといっても読みがたきは、その文体。

霊気と仁術―富田流手あて療法 につぐ馴染みのない文語体でありますので、決して読みやすいとはいえません。

しかし、今は亡き大家のことばに触れることは、その魂の片鱗に触れること。 こうして書き残してくださったことに、深く感謝申し上げるばかりです。

「気伸は癒ゆなり」

最初にこの本を読んだ頃は、まだまだレイキの実践も少なく、気感もほとんど無い状態でしたから、 大方は腑に落ちないままに読み進めたのでありますが、 ただひとつ印象に残った言葉がありました。

「気伸は癒ゆなり」

もちろん、当時のわたしにこの意味がわかるはずもありません。

しかし、なんとも不思議なもので、以来この言葉がずっとわたし中で、一つの問として存在しつづける こととなりました。

そんなわたしも、経験を積み重ね、少しは気感が養われてきたのでしょうか・・・。

ある時から、ヒビキだけでなく、手の下でうごめく何かを感知するようになりました。心の耳を澄ますと、時にそれは、ある瞬間を境に大きく伸展していくこともあると気が付きました。

「気伸は癒ゆ」とは、このことなのだな。

つまり、気が凝り固まって流れが停滞したところに痛みや症状が出る。そこが緩んでいくときに、気が伸展していく、という感覚がとらえられるのです。

そういった気の流れのルートが、経絡図でいう経絡に相当することもあります。

針灸の施術や、経絡指圧では、あらかじめ刺激が必要な経絡を見極めて、そこを調整していくということをしますが、レイキの場合ですと、そう意図しなくても、手を当てているとある部分が自然に反応をしてくる、ということがあります。

経絡の調整が必要であれば、自分から動いてくるのです。

だから、レイキをしている人は、それを邪魔することなく、できるだけその自然な動きが促進されるようにそこに在ることを、実は、求められます。

そういう心のありようというものは、実践の積み重ねによって学ぶのが一番なのは言うまでもありませんが、わたし自身、晴哉氏の世界観、ことばからいただいた気づきと学びの恩恵には計り知れないものがあります。

レイキは自動調整!?

レイキのことを説明した文章の中には、「エネルギーの流れが自動調整されます」という表現も多くみられるのですが、これは、なにもわからないと、非常にうさんくさいですよね(笑)。また、この自動調整という表現がなんとも色気ない^^;。

でも、実際そういうことが起こっているのですね。もっと言うと、人が手を当てる、ということで、そういう気の動きがおこってくる、というのが「自然の理」なのでしょう。

手をあてて、ヒビキを感じることは、ほんのそのさわりを感知しているにすぎないのです。

その部分に手を触れても、ヒビキもしない、という場合でも、手をあてて心の耳を澄ませていると、気の流れが起こってきて動き出してくる。そうして、ようやく、手のひらにヒビキがやってくる、ということはよくあります。

最後に「気伸は癒ゆなり」ということばが使われていたくだりと、今回の再読で印象に残ったところをご紹介させていただきますね。

治療のこと気を感じて始めて為すを得る也。気は見えざる気見るに至つて治療のことある也。気枯れ又気去るは癒えず、古人けがれくさるといひし所以也。気伸は癒ゆ也。気を感ずれば裡なるはたらき自づから知るを得る也。又心のこと自づから判る也。(「治療の書」より)

人の体解剖して眺むれば、胸腔内に肺心あり腹腔内に胃腸あり。されど生きてゐる胸には恋愛も借金もある也。腹に一物あることあり恨みあり悩みあり諦めあり信念あり。之を観ざれば生たる人判らず。生きたる人つかまへずば、治療ということ為し得ざる也。(「治療の書」より)

痛快な野口節ですね(笑)!こういう表現は、本当に晴哉氏らしいです。

死んだ体を解剖して探しても、真の理由はわからないよ、ということをこれほどわかりやすくユーモアを以て表現される方、なかなかいないのではないでしょうか。

そうそう。今、傍らでは、クラシック音楽が流れているのですが・・・。

野口先生は、クラシック音楽がとてもお好きでいらしたのですよ。まぁ、そんなことも、本で見知っただけの話ですが、ささやかなるこんな偶然もうれしいものですね。

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