下痢をした父の愛犬への遠隔

モモに遠隔でレイキ

「明日は、朝早くに家を出るから・・・」

そう実家に電話をすると、父の愛犬モモが下痢で大変だという。

年末はクリスマスの頃、親族の結婚式で両親が上京したおり、モモをペットホテルで預かってもらったら体調を崩してしまったらしい。

「迎えにいったら、下痢をしてしまって大変で!それが家に帰ってからも止まらなくてねぇ。薬を飲んでも効かないし、どうしたものかと・・・。」

という母の話であった。

「なーんだ。そんな事なら早く言ってよ。遠隔でレイキすればすぐに良くなるよ。」

そう言って電話を切ると、わたしは、車の助手席でモモに遠隔を始めた。

ちょうど、帰省のお土産を買い出しに、主人と車で15分程度のところまで出かけることになっていたのだ。

離れていてもレイキはできる

レイキで便利なのは、レイキをしてあげたい対象が離れている場合でもこうしてエネルギーを送ってあげられるところ。

離れていても、対面と同じようにヒビキなどの感触は伝わってくる。

わたしの場合、遠隔では対面以上に、レイキを必要としている氣のゆがみを明確にキャッチできる場合も多く、これが非常に役に立つ。

その氣の歪みにフォーカスしてレイキをおくっていくと、その歪みがスーッと解けていく瞬間がある。それで、その部分のレイキは終了となる。

「冷え」は不調の元

「これだけ冷えていれば、下痢が止まらないのも仕方ないなー。」

モモの体はとっても冷えていた。

わたしの体も全身震えあがる程の冷たさだった。

冷えていることが原因で、それが、何らかの症状として現れることはよくある。レイキをしてみると、その「冷え」を如実に実感することができるので、冷えには非常にアプローチしやすいのがレイキの強みでもある。

こうして、レイキでその冷えを感知した場合、基本的にはその部分が温かくなるまでレイキを送ってあげれば大抵は何かしらの肯定的な反応がある。

この日は頚椎とお腹の辺りに、片道15分程度、往復で30分程度は遠隔でレイキをすることができた。

結果として、冷たさは幾分和らぎ、エネルギーの通りもよくなった感触を得たけれど、まだレイキが必要だと思った。

翌日は、早朝のドライブの助手席で、お腹の前後から30分程度のレイキを。

もう前日のよう強烈な冷たさはなく、熱感とともにお腹に力が湧き上がってくるのを感じられたので、それでモモへのレイキは終了となった。

実家についてみると、モモの下痢はとまって元氣になりつつあるようだった。

スムーズに体をうごかすことが難しくなってしまった父に代わって、一足先に冬休みをばあばの家で満喫している姪っ子とともにモモの散歩に出ると、モモはお尻を振りながらいそいそと歩き出した。

この帰省の旅で、こうしてモモと散歩にでること3回ほど。

特に、遠隔をしたその日にモモと散歩をした時には、モモとの間に柔らかなエネルギーが通いあっているのを感じた。

「触れる」ということ

散歩を終えたあとは足を洗ってブラッシング。

父がそうしていたように、わたしもまたそうする。

すると必然的にモモに触れることになるし、また、触れたいという氣持ちにもなる。

「遠隔した時にはあんなに冷たかったのに、元氣になったものだな。」

触れながらそんな事を想った。

姪っ子は、一緒に散歩には行きたがるのに、モモにものすごく接近するのはまだ怖いようだ。

しかし、「怖い」という氣持ちがあるうちは本当のコミュニケーションはできないんだよな。

わたしは、犬が苦手だった自分の子供のころを思い出した。あの当時はまだ野良犬がふらふらしていて、とくに下校時に1人でいる時に野良犬にあうと顔面蒼白。

絶体絶命、というピンチだった。

猫は道で会ってもあっちにいってしまうのに、犬は出会ってしまうとついてくるから本当に怖かった!!!

今、こうして犬に触れることができるようになったのも、レイキに出会ったことが本当に大きい。

「レイキをしてみたい。」

「レイキをしたらどうなるんだろう?」

そんな好奇心に支えられて、わたしはレイキに「触れる」ということの意味を教えてもらった。

いのちにとって、「触れる」「触れられる」ということがどんなに大切なことか。

どんなに意味のあることなのか。

そのことに氣づくことができた分だけ、人ととして少しはやさしくなれた氣がします。

レイキの美点

レイキができるようになると、身近な人を癒してあげることができたり、この記事のように離れている対象にレイキをしてあげることができたりと、本当に便利です。

そして便利というだけでなく、そうした体験の積み重ねを通じて、レイキは人の心が持つ肯定的な力を引き出してくれます。

むしろ、わたしはこの部分に魅力を感じていて、いまだにレイキを続けています。

元来利己的で自己中心的であるわたしという人間の中から、ゆっくりでも、思いやりややさしさという芽が少しずつ育まれていくことが人としてとても嬉しいです。

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