濁水にも、ことばなき水の安らぎ。

自分自身がどこまでも広がっていくような・・・。

氣持ちの良い秋のくつろぎの中、今朝ほど出かけた森で受け取ったインスピレーションです。

桂の樹の立ち並ぶ水辺の心地よさに惹きつけられて、濁った水面の小さな池の畔に立ちました。

心静かに立っていると、言葉なき水の安らぎがわたしを捉えます。

エネルギー的な観点で言い換えるならば、それはそれは滑らかで精妙なエネルギーが、この小さな一体を支配していることに氣がつきました。(これがわたしの氣の感覚です。)

ああ。。。

濁りを含んでも尚、本質を失わぬ、水そのものの在りようの美しさよ!

それはまた、わたしたち人も同じなのではないかと心が震えました。

人は個性という色のついた水

水はあらゆるものを自身の中に含むことができます。

この池の水面のように、さまざまなものを含むほどに見た目は濁っていきます。水彩絵の具で、絵筆を洗う水も、しだいに濁っていきますね。

しかし、水そのものの力に変りはありません。

人は、「濁り」の方へと意識を奪われがちですが、一歩引いて眺めてみるなら、透明な水の姿は見えなくても、その濁りを含んでいる水という力そのものが変わらずあることに氣がつきます。

たとえるなら、人は、個性という色のついた水です。

個人としての相性や好き嫌いがあるのもまた人ならではの面白さですが、人間関係では、それが苦しみや悩みの種にもなるものですね。

しかし、この濁りをふくむ水のように、そのベースには人を人たらしめるもっと大きな力(本質的な力)があるのだと氣がつくことができるなら、その苦しみや悩みはうんと小さくなります。

本質的な力の輝きは強く美しいものだからです。

これを体感すると、大抵のことはどうでもよくなってしまうという意識の変化があります。「愛」と言ってもいいでしょうね。それは、氣づいた瞬間にわかる性質のものです。

この本質的な力を感じ取ることができるようになると、だれもが同じ力で生かされていることが分かり「あなた」と「わたし」の分断がなくなります。

ただし、この本質的な力は、雑多なものには簡単に掻き消されてしまうという繊細な性質を持ち合わせています。

レイキ的な在りようのひとつ

そうした領域に意識を合わせることができるようになるのも、レイキ的な在りようのひとつです。

レイキもまた、こうした本質的な領域の力だからです。

ヒビキを感じ取ることから始めて、氣(エネルギー)を感じられるようになっていくと、繊細なその力の尊さと逞しさを理解するようになります。

それまでにかかる時間は、人それぞれです。

簡単ではありません。

わたしの場合は、ここまで言語化できるようになり、日々の生活で少しは実感を持って生きられるようになったなと思えるまで、レイキを始めて独力で18年かかっています。

読んでわかるのと、自分で言葉にできるのには理解度に各段の違いがあることも知りました。

「簡単ではない。」からこそ

「簡単ではない。」というのは、人は繊細な領域への敬意を欠きやすい生き物だからです。ちょっとした一瞥体験にもあぐらをかきやすいものです。

また、知れば知るほど、知らないということを思い知るものでもあります。

人は、同じような言葉を使い、同じような意識を持つ人たちと積極的に交流することによって、その在りようが促進されます。

他者を見るその眼差しの中に、いつでも自分自身が映っています。

「簡単ではない。」からこそ。

風の城が、レイキの実践を通じて、本質的な在りようを望む人たちの集いの場となれば嬉しいです。

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