木を植えましょう
行きつけのカフェでした。
詩集や、旅の本、うつくしい写真集、インテリアの本、 自然を大切にした暮らしに関するもの、などなど。
そこにはオーナーさんの趣味によるちょっとしたブックコーナーがあります。
そのコーナーのテーブルに無造作に置かれていた一冊が、この、木を植えましょう―Sustainability & spirituality でした。
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一面の深緑。
その中に、小さく描かれた青空と緑の木。
その小さな四角い世界が、光の小窓のように輝いて見えました。(その絵が、 葉祥明さんによるものだと知ったのは、この本を読み進めてからでした。)
ひきよせられるようにしてこの本を手に取って、 中をぱらぱらとめくると・・・。
一目で腑に落ちる解説用のイラスト、ビビっと来る言葉のはしばし。
ほんの少し垣間見ただけで、これはわたしにとって とても意味のある本だと予感しました。
そして、触れている両手からは、花々から感じるようなとても繊細で軽やかな質のエネルギーを感じました。
予期せぬ出会いに、この本を手に嬉々として、一緒にいた相棒に語らうわたしの様子に、
「いいでしょ?その本!」
「わたしもそれを読んで少し変わったんです」
お水をふたつ運んできてくれたお店のオーナーさんが、うれしそうに囁いてくれました。
なんでも、ご子息のお嫁さんを通じてこの本に出会ったとのことで、 すでに、友人知人にも何冊か配ったんですよ、と教えてくださいました。
もうこのカフェには最低でも月に一度。何年もかよっていてすっかり顔なじみなのですが、 類は友をよぶ、とはよく言ったもの。
やっぱり、趣味趣向を同じくするものは引き寄せられるものなんですね(笑)。
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木を植えると、50年たって森になるというのではない。木が植えられた瞬間森になる。 小さくても森である。それは、人間の赤ちゃんがどんなに小さくても、人間であるのと同じことだ。 そして子供の存在が子供のままで希望であり救いであるように、新しい森は幼いままに森であり希望 であり救いであった。(「木を植えましょう」より)
この本には、ぜひとも共有させていただきたいすばらしい個所がたくさんあるのですが、著者が実際に自分たちの手ではげ山に木を植えるという体験をつづられたくだりには、思わず、声をあげて泣いてしまいました。
それは、破壊され行くこの地球の自然環境に心を痛めつつも、 わたし自身もまた、それを破壊しつくしてきた文明の一員であり、 その文明の営みの中でわたしは生かされてもいるという事実。
そうしたことに気が付きながら、具体的にはなんの行動もおこしていなかったわたしの想い、というよりは、多くの人たちの心の底ではきっと波打っているあろう 真実の想いが、わたしのそれと重なりあって同時に噴出したようでもありました。
それは、とてもとてもあたたかく、心の底から安らぎを覚えるような エネルギーの噴出でした。
だからなのか・・・。
その噴出を自らの体を通して感じている間、そんなに長い間ではなかったけれど、 妙にほっとするというか、癒されていくのを感じました。
木を植えることには歓びがある。
あんなに大きな歓びをもたらすものを、ぼくはほかに知らない。
瞑想すれば心は安心するけれども、とくにうれしいと感じるわけではない。
畑で働くのは心地よいけれども、ことさらうれしいとは思わない。だけど木を植えるのはうれしい。歓びにみちている。
あんなふうに参加者全員が大きな歓びにつつまれるのを、それまでぼくは他に見たことがなかった。(「木を植えましょう」より)
力が悪いのではない。それを捨てなければならない訳でもない。
ただ、ぼくたちの力に見合うだけのより高い精神性にめざめ、倫理観をそなえなければならないのだ。(「木を植えましょう」より)
わたしは、「愛」への目覚めを体験したのを機に、レイキに出会いました。そして、レイキに親しむうちに、緑(森)と仲良くなりました。その次にわたしを導いたのは花でした。その繊細なささやきを感じ取れるようになってたどりついたのが、この、「木を植えましょう」でした。
花鳥を愛で、森を敬う心。あたらしい文明は、そんな心から生まれます。
どうぞ、ぜひとも、この本を手にとって読んでみてください。
新品でこの本を購入すると、その収益は、すべて森を育てるために使われます。
一冊買うと、苗木を一本植えることができるそうです。